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2006年 01月 02日
最近、新聞の投書で、心が痛む記事を読んだ。小学生の頃に通りすがりの若い男から性犯罪の被害を受け、それを誰にも言えずに自分の胸にしまってきた女性が、20代に入ってからようやく学生時代の恩師や精神科医のカウンセリングでそのことを打ち明けた。そうすると、返ってきたアドバイスはどれも「誰にも口外しないように」「過ぎたことだから忘れなさい」「墓場まで持っていきなさい」というものだったという。しかも、それを口にしたのは皆女性の専門家だったという。
性的被害の被害者は、本人にはまったく責任はないのに、自分が汚されてしまった感覚、「自分は他の人とは違う」という負い目に悩み、大抵の場合誰にも打ち明けられずに1人で長期間苦しむ。上記の女性のように、誰かに話せるようになるまで十数年もかかることは珍しくない。そして、ようやく勇気を出して打ち明けても、無理解な専門家から不適切な対応をされることでさらに傷ついてしまう。 専門家から傷つけられるというのは、ある意味、性犯罪そのものよりも悪質だ。性犯罪の被害者が、それを打ち明けるまでにどれほどの心の葛藤があるかご存知だろうか。それほどの勇気を振り絞って助けを求めたのに、そこで共感を欠いた対応をされれば、被害者は絶望し、もう二度と助けを求めようとはしなくなるかもしれない。つまり、彼女ら(彼ら)の人間不信はさらに強まり、癒しへの道はそこで断ち切られてしまう。 「言葉にする」「助けを求める」というのは、強さの表れであり、回復への大きな一歩である。その強さを称賛せずに、彼らの言葉を封じ込めるような対応をするいわゆる「専門家」がまだ存在するのは悲しい。一部の専門家にとっては、性犯罪、性的虐待は未だにタブーの領域なのだろう。うろ覚えだが、以前、ある高名な精神科医がどこかに書いたものを読んだことがある。昔、彼が診察中にある女性から子ども時代の性的虐待についての話を聞いていたときに、「先生、この話は何年か前にもしたのですよ。そのとき先生は、何も答えずに話を別の話題に移されました」と言われたという。そして、精神科医本人はその「何年か前の会話」についての記憶がまったくなかったということだ。それくらい、現在はその方面の第一人者である治療者にとってさえも、かつては性的虐待というものは意識下に押し込めたくなるほどのタブーだったのだろう。その方は男性だから、まだそれは理解できる。ただ、本来誰よりも被害者の味方でなくてはならないはずの女性の援助者にそういう人がいるのは本当に悲しいことだ。 残念ながら、性的被害に遭った人が1人で回復していくのは難しい。その癒しの過程には、信頼できる専門家の助けが必要不可欠だ。その意味で、専門家への助けの道を断ち切るような言動を行う専門家の罪は重い。世の中には、まだ少数かもしれないが、トラウマやPTSDに関するきちんとした知識を持つ本物の専門家もいる。そして、トラウマからは必ず回復できるのだ。被害に遭われた方が、良い治療者を探してもう一度助けを求めることを心から願う。 #
by premacolumn
| 2006-01-02 09:48
| カウンセラーを目指すあなたへ
2005年 12月 18日
以前、心の問題はしばしば頭痛や肩こりなどの身体症状として現れると書いた。心は自分自身に対してもごまかしがきくことがあるが、体は常に正直だ。抱えきれないほどのストレスがたまったとき、体は必ず、あらゆる手段を使ってあなたにSOSを発信し続ける。
ストレス時の目に見える反応だけではない。体はその人の「心のくせ」と、子どものころからの記憶をすべて持ち、表現しているものなのだ。 たとえば、私がアメリカで会った、子どものころに性的虐待に苦しんだ女性には、でっぷりした肥満の人が結構いた。自己の最も基本的な所有物である肉体という領域を暴力的に侵された彼女たちは、自分の周りに脂肪という鎧(よろい)をまとうことで他者との距離を広げて自分を守ろうとし、さらに「醜ければ性的対象として見られない」という思い込みも手伝って、無意識のうちに肥満という体型を選択しているケースが多かったのである。いつも背中を丸め、小さくなっている人は、「自分がスペースを取るのは申し訳ない」「自分はこの世からいなくなった方がいい」という信念の持ち主かもしれないし、背中の痛みがひどかったり、常に頭痛に悩まされている人は、過去にひどい虐待を受けた経験を意識の上では忘れていても、体が記憶していてシグナルを送ってきているのかもしれない。 私のところへ以前来た人で、いつもあごに緊張を抱えている女性がいた。歌の勉強をしていたこともあり、何年もの間教師から「あごをゆるめなさい」と言われ続けてきたが、どうしてもリラックスさせることができない。夜もひどい歯ぎしりに悩まされていた。私と一緒にあごの緊張に注意を向けるワークを行うと、彼女は、厳格な家庭に育ち、自分の言いたいことを自由に話すことができなかった子ども時代を思い出した。「言いたいことを言うとトラブルが起こる」という無意識の思い込みが、言葉にブレーキをかけるあごの緊張という形で30年以上も続いていたのだ。 こうした場合、私が使うセラピー技法のひとつ、心身のつながりを重視する「ハコミセラピー」では、あごの緊張に敬意を表することから始める。確かに、あごを緊張させていたおかげで、子ども時代の彼女は数々のトラブルから逃れることができたはずだからだ。ただ、成人して親元を離れ、その緊張がもはや必要なくなった後でも、心の「くせ」として身体が覚えおり、それが歯ぎしりなどのトラブルとなって残っていたのである。 体というのは不思議で、「緊張しててもいいんだよ」と許しを与えられると、逆にほっとしてゆるんでしまうものなのだ。彼女も緊張しているあごを受け入れることによって、「あごがゆるむ」という感覚を実感することができた。一度そういう「分かった!」という経験すると、それはその人の財産となって残る。体は元のくせで、また緊張することもあるだろうが、「あのときあんなふうにゆるんだよな」という感覚を体が覚えていれば、その場所に戻ることができるのだ。 #
by premacolumn
| 2005-12-18 09:51
| からだと心
2005年 09月 24日
今回はちょっと趣向を変えて、椅子の話。
札幌にカウンセリングルームを開いて半年が過ぎた。時の経つのは本当に早い。自分のセラピールームを立ち上げるのは、長年の夢だったこともあり、とても楽しい作業だった。特に楽しかったのが、部屋のインテリアを考えることだ。サンフランシスコのインターン先ではずっと、椅子と観葉植物の鉢がひとつ置いてあるだけの殺風景な面接室でセラピーをやってきたので、これでやっと私の思い通りの部屋が作れる!と、帰国が決まってからは寝ても覚めても部屋のインテリアを考えていた気がする。 アメリカでは、自分のセラピストやスーパーバイザー達のさまざまな個人開業のオフィスを見る機会があった。内装に気を使うセラピストの部屋と、そうでもないセラピストの部屋は、入った瞬間に区別がつくものである。もちろん、何より大切なのはセラピストとしての力量に違いないから、別にインテリアに凝る必要はないかもしれないが、セラピーというのは場の雰囲気も含めてセラピーであるから、部屋の雰囲気は悪いよりも良いに越したことはない。訪ねたことのあるオフィスの中でも、いくつかの部屋はとても印象に残っている。良いセラピールームというのは、照明が明るすぎず暗すぎず、いるだけでほっとくつろげるのに、部屋を出た後にあまり詳細を思い出せないような、とんがった主張のない部屋だと私は思う。私のスーパーバイザーの一人、シンシアの部屋もそういう部屋だった。彼女は、部屋の壁まで自分で塗ったといい、彼女のセラピールームは淡いオレンジの壁と、くすんだ色のソファと、たくさんの観葉植物やさりげなく置かれたアンティークの小物などが、何ともいえない安らぎを醸し出していた。でも部屋の詳細はよく覚えていない(笑)。 前置きが長くなったが、自分の部屋を整えるにあたって、一番頭を悩ませたのが、私が座る椅子をどういうものにするかであった。アメリカでは、どっしりした革張りの、かなり重厚な回転椅子にセラピストが座っているのをよく見かけた。確かにドクターがよく座っているような、権威あふれる感じの椅子である。しかし私は、あまり威圧感のある椅子には座りたくなかった。前にも書いたが、セラピーはセラピストが上からものを言ったり、アドバイスを与えたりする場所ではない。私ができるのは、クライアントの方と同じ場所に立って、二人で同じ方向を見ることだ。一人よりも二人の方がよく見えるので、クライアントが探しているものを、「あ、あそこに何か見える気がするけど、船かな?」「こっちの方角に島があるみたいだよ」などと、一緒に探すお手伝いをするだけだ。そんな自分に、威圧的な椅子が必要とはどうしても思えなかった。かといって座り心地は妥協したくない。カタログもいろいろ見てみたが、どうもぴんと来るものがない。 考えあぐねていた時、たまたま大阪でインテリアデザイナーをしている友人と話す機会があったので、北海道で家具を買うなら、どこがいいか聞いてみた。友人がすすめてくれたのは、ある旭川家具のメーカーだった。さっそく札幌のショールームに行って、そこにあった目ぼしい椅子にすべて座ってみた。その中で、座面が広く(私はよく椅子の上であぐらをかくので、座面が広い椅子の方がありがたいのである)、座高が低く(クライアントの方が座るソファと同じ目線にするため)、軽くて移動にも便利な肘掛け椅子を見つけた。椅子の張り地は、何百種類もの布や革から選べたので、いくつかサンプルの布を持ち帰り、毎日眺めつつソファとのバランスをいろいろ考えた結果、薄いベージュの布に決めた。家具をセミオーダーしたのなど、生まれて初めてである。 何週間か待ったのち、手元に届いた椅子は、予想通りしっくりとセラピールーム全体の雰囲気になじんでくれた。座り心地もいいが、何より何の変哲もない外観がいい。この椅子は以来、私の仕事の重要なパートナー役を果たしてくれている。今はまだ真新しいけれど、古いもの好きの私としては、私と一緒に年を重ねて、早く使い込んだ雰囲気にならないかなあと楽しみにしているのである。 #
by premacolumn
| 2005-09-24 09:53
| つれづれ
2005年 07月 14日
帰国後間もない今年3月下旬、札幌のある集会の後援者の一人として名前貸しを頼まれた。「肩書きは何にしましょうか」という先方に、私の持つカリフォルニア州の資格に沿って「サイコセラピストにしたいのですが」というと、「?」という顔をされた。やはり、「サイコセラピー」といっても、まだまだ日本では通りが悪いらしい。結局「心理カウンセラー」ということで落ち着いた。その流れで、自分のオフィスの名称も、しぶしぶ「カウンセリングルーム」を採用することにした。
アメリカでも私の知る限り「カウンセリング」と「サイコセラピー」はほぼ同義語として使われているので、別にこだわることもなさそうであるが、どうも「カウンセラー」と名乗るのには抵抗がある。counselという英語は本来、「年長者や専門家からのアドバイス」という意味だ。だから「キャリアカウンセリング」「進路カウンセリング」などという文脈で使われる場合には文字通りの意味になるが、いわゆる「カウンセリング(心理療法)」の場合は、語義と実態が一致していないと思うからである。 症状が重い人に精神科の受診をすすめたり、不眠の人にカフェイン摂取量を減らしてみるように言ったりすることはもちろんあるが、心理療法の本来の目的は、アドバイスを与えることではない。カウンセラーの最大の仕事は、クライアントが自分の一番深い部分とつながり、恐怖心や目先の損得勘定(それは大抵奥底にある不安感から出てくるものである)、あるいは周囲の思惑にしばられない、その深いコアの部分から、そのときに自分が一番必要としていることを自分自身で決定するお手伝いをすることであると私は信じている。どんな人の中にも、その内なる叡智はそなわっている。人は本来、自分で自分を癒す力を持っているものなのだ。ただ、一人でそれを行うことは非常にむずかしいので、それをサポートするウィットネス(立会人)としてのセラピストがその場にいることは大きな意味を持つ。 そうした「カウンセラー」の立場を正確に表すのには、カウンセラーという名称よりも、「心理療法をする人」という意味の、「サイコセラピスト」の方が適切だと思う。「サイコセラピー」という言葉が、日本でももっと認知されることを願う私である。 というわけで、このHPの中では、「心理療法」「サイコセラピー」「セラピー」「カウンセリング」はすべて同義語として使わせていただきます。 #
by premacolumn
| 2005-07-14 09:59
| カウンセリング
2005年 06月 13日
「心理療法」というと、心の問題だけを扱うものと思われがちであるが、私はそうではないと思っている。以前新聞で、腹痛でやってくる子の9割は体に異常がなく、心因性だという事実に直面した医師の経験談を読んだ。感情が未発達な子どもは特にそうだが、大人でも、心の問題を心では感じられず、代わりに腹痛や頭痛、肩こり、じんましんなど身体症状として表現する人は多い。これは日本人を含むアジア人一般の特徴である。感情を表現することに慣れていない日本人にとっては、自分がうつで苦しんでいるという事実を受け入れるよりも、「体がだるくて起き上がれない」「頭痛がひどくて会社に行けない」と身体症状に転換してしまうほうが安全だからだ。
心は、見ないふりをしてごまかしながら日常生活を送ってゆくことがある程度までは可能だが、体は実に正直だ。何かストレスがあると、ちゃんとSOSを発信してくれる。 私自身の経験を話そう。日本を離れるまで、私は新聞記者として働いていた。ある地方支局で楽しく仕事した後、東京の本社に配属になった。木造のちいさな支局から高層ビルの一室にオフィスが移り、若い記者ばかり6,7人でのんびりと楽しくやっていた環境から一挙に何十人もの先輩に囲まれる職場への急激な変化。東京のテンポの速さとオフィスの利きすぎる冷房、今までとは比べ物にならないほど競争の激しい仕事のプレッシャーなどが一挙に襲いかかってきた結果、私は全身にひどいじんましんが出るようになってしまった。それも何というか、実に「便利」なじんましんで、日中気を張って仕事している時は出ない。深夜に帰宅し、ほっと一息ついた途端に全身に蚊にくわれたような模様が広がるのだ。そして翌朝、「さあ、仕事に行くぞ」と思うとすっきりと引っ込むのである。つまり私の体は、仕事の邪魔にならないような方法で、「ちょっとストレスたまってやしませんか」と警告を発してくれていたのである。 私はといえば、その警告を無視し続け、対症療法的に皮膚科からもらった薬を飲み続けていた。が、もちろん治るはずもない。なぜなら問題は私の皮膚にあるのではなく、ストレスで疲弊した心にあったわけだから。 一年間そんな生活を続けた後、私は思うところがあって退職した。その結果どうなったか?仕事をやめたまさにその日以降、まったくじんましんは出なくなったのである。もちろん薬なんかいらなかった。嘘のようなほんとの話だ。 からだって、本当にえらいのだ。こんなにえらいからだを心理療法に使わない手はない。皆さんもそう思いませんか? #
by premacolumn
| 2005-06-13 10:01
| からだと心
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