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2009年 08月 26日
(北海道臨床心理士会ニュースレター 09年3月号より)
05年に帰国し、札幌にカウンセリングルームを立ち上げてから早いものでこの春で丸4年になる。お陰様で運営は順調で、毎週ほぼ満員である。心理士の開業というと日本ではまだハードルが高いのかもしれないが、私が在籍していたカリフォルニアの大学院は教授陣全員が開業心理士だった。「成功する個人開業」という選択科目があったくらいだし、資格試験の内容も受験者が個人開業の心理士として独り立ちできるだけの資質を厳しく問うものだった。従って資格取得後に個人開業を目指すのは私にとって(というか私の大学院仲間は皆そうだったと思うが)ごく当たり前のことだった。これから開業を目指す若い方にとって、私の体験が何かのお役に立てればと思う。 言うまでもないが、開業する際に最も大切なのは臨床家としての技量である。学校や病院と違い、安くない料金を自腹で払うクライアントが対象の個人開業では、技量のないカウンセラーの元へは彼らは2度と戻ってこない。そして、臨床家としての資質は残念ながら、指定大学院を出て臨床心理士の資格を取得しただけでは絶対に身に着かない(カリフォルニアでは大学院修了後毎週スーパーヴィジョンを受けながら3000時間の実習〔通常フルタイムでも2年以上かかる〕を積まないと資格試験さえ受けさせてもらえない)。技量を磨くためには、SVと実習はもちろんのこと、さまざまな技法の中から自分に合うものを見つけ、それについて専門的な訓練を受けることが不可欠である。私はユング派からナラティブセラピーまでさまざまな療法をかじった後、自分のスタイルに一番合ったふたつの身体心理療法のトレーニング(ハコミセラピーとソマティック・エクスペリエンス)をそれぞれ2年間と3年間受けた。自分がこれと思うオリエンテーションを見つけるためには、心理士としての経験が浅い段階でなるべく多くの技法に触れてみることをおすすめする(ひとつの技法を長く学んだあとにまったく別の技法を身につけるのは、かえって困難である)。 上記とも関連するが、自分の専門領域をはっきりさせることも、個人開業する上では非常に大切である。あらゆる悩みのジャンルをすべて網羅しているようなカウンセリングルームのHPをたまに見かけるが、あれもこれもできると掲げるのは、結局どれも中途半端だと言っているに等しい。私はトラウマ療法(特に性的虐待や交通事故や災害の後遺症など)が専門なので、トラウマの後遺症で悩み、これまで病院やカウンセラーめぐりをして適切な助けを得られなかったクライアントが、インターネットで私を探して全国からいらっしゃる。 そして、もうひとつ大切なのが、自分の能力の限界を見極める力である。そしてそれに関連して、良いリファー先を開拓すること。一定期間通っているクライアントに何の進展も見られなければ、それはカウンセラーとしての自分の能力不足であり、漫然とセッションを継続するのは倫理に反すると私は考えている。私は信頼できる精神科医(これが非常に少ないのですね)はもちろんのこと、自助グループやマッサージセラピスト、鍼灸師に至るまでさまざまな場所にクライアントをリファーする。こうしたネットワークづくりは、良い個人開業には欠かせない。 その他、宣伝のノウハウや開業セラピストとしてのセルフケアなど、お伝えしたいことはたくさんあり、とてもここでは書ききれない(中略)。個人開業は本当に楽しいし、セラピストとしての醍醐味を何よりも味わえる職種だと思う。同じ志を持つ方が一人でも増えることを願っている。 人気ブログランキングへ #
by premacolumn
| 2009-08-26 13:56
| カウンセラーを目指すあなたへ
2008年 11月 27日
最近、やりきれない事件が続く。そして、その事件の背景に対する世間一般のとらえ方(つまりマスコミ報道ですが)の浅さにもまた、やりきれなくなる。大抵の事件の背後にはトラウマが関係しているのに、そういった視点から読み解く報道もないし、そもそもトラウマの本質を世間がほとんど理解していないと思うと、いたたまれなくなってしまう。
ここ数日の最も大きなニュースは、厚生省元幹部の殺人容疑者の逮捕だ。容疑者が動機として「子どもの頃飼っていた犬を保健所に殺された」ことを挙げているのに対し、突拍子もない動機だと世間はとらえているようだ。でもそういう捉え方は、トラウマの本質というものをまったく理解していない。 私は日々多くのクライアントと接している経験から、子ども時代に自分の留守中に黙ってペットを保健所に連れていかれたり、親から「保健所に連れて行け」と言われてやむを得ず自分の手で可愛がっていた動物を保健所に連れて行ったりすることが、子どもの心にどれほどの大きな傷を残すかを知っている。そして、トラウマの大きな特徴は、トラウマを受けた時点でその人の時間が止まってしまうことだ。この事件の容疑者にとっても、彼の時間は彼の大切な犬を保健所に連れていかれた数十年前のままで止まってしまっていたに違いない。 大抵のケースでは、そうした人生を変えてしまうようなつらい出来事があっても、その後成長していく過程で良い恩師やパートナー、友人に巡り合い、少しずつその傷を癒しながら前へ進むことができる。しかし、中にはそういった資源をその後の人生でまったく手にすることができない人がいる。 彼はおそらく、犬が子ども時代の自分の唯一の友人だったのかもしれない。友達がたくさんいて、家族の愛にも恵まれた子どもが、何かのきっかけでうっかり保健所に犬を連れていかれたというようなケースではおそらくなかったのだろう。きっと親も、そのことが本人にとってどれほどの傷になったのかに気づかなかったに違いない。そもそも、それに気づくような親であれば、犬を保健所に連れていく前に別の選択肢を考えただろうし、仮にやむを得ず保健所に連れていくにしても、彼の分かる言葉できちんと彼に対して説明しただろう。そういうケアがない中で、突然自分の一番の親友を失うということは、小さな子どもにとっては目の前で人間の友達が射殺されるのと同じくらいの衝撃である。そして、何度も言うが、トラウマを受けた人間にとって、時間はその時点で止まってしまう。「何をそんな昔のことを今さら」ではないのだ。そもそも、犬を殺されたことの恨みの矛先が保健所-厚生省へ向くことこそまさに、子どもの論理の飛躍(とても40代の人間の思考回路とは思えない)とは言えないだろうか。殺人はもちろん許されるものではないが、彼がそこまで傷ついていることに、彼がもっと若いときに周囲の人間が気付いて適切なサポートを差し伸べられなかったことに対しては、本当にやりきれなく思う。 同じく、トラウマにまつわる別の事件が今朝の朝刊に小さく出ていた。元タレントの女性が交際相手の背中を刺して殺したという事件の判決の記事だ。被告の女性は、交際相手からの暴力を受けていたといい、「刺した記憶がない」と話しているという。トラウマを日常的に受けている人間が、何かのきっかけでエネルギーが暴走し、解離状態の中で犯罪を起こすことはよくある。これはすべて、トラウマというショックに対する身体の反応がなせる技なのだ。私のトラウマ療法の師ピーター・リヴァイン博士は、こう述べている。 ・・・レイプされた女性がショックから抜け出すとき(それは何か月も何年も後のことがよくあります)、彼女たちはしばしば、加害者を殺したいという騒動を感じます。彼女たちが実際に加害者を殺す機会を持つ場合もあります。こうした女性たちの中には、時間の経過のせいで計画性があるとみなされ、裁判で「謀殺」の罪を宣告された人もいます。そこで起きたと思われる生物学的な反応に対する無理解から、不当な処罰が行われた可能性もあるでしょう。こうした事件を起こす女性たちの多くは、動揺する硬直反応から抜け出す際に体験する、深い(そして遅延性の)怒りと反撃の自己防衛反応を行動に移していたのかもしれません。こうした報復は生物学的に動機づけられたのであって、必ずしも計画的な復讐とは言えないでしょう。こうした殺人事件の中には、トラウマ後のショックを効果的に治療することで防げたものもあるかもしれないのです。 (ピーター・リヴァイン著「心と身体をつなぐトラウマ・セラピー この事件でも被告は懲役2年6か月の実刑判決を受けたという。まさにトラウマに対する無理解から、さまざまな悲劇が世の中では起きている。多くの専門家もまだ、トラウマの仕組みを本当には理解していないのが現状だ。少なくとも医療や福祉、心理にかかわる人々の間で、トラウマに関する真の理解が常識になる日が早く来てくれることを心から願う。 人気ブログランキングへ #
by premacolumn
| 2008-11-27 10:08
| トラウマ
2008年 06月 14日
(北海道ダルクニュースレター 08年6月1日号より) 私は以前、米国に6年ほど住んだことがある。カウンセリングの勉強をするためであり、その6年間には専門分野から私的なことまで、実にさまざまなことを学んだ。米国という国は日本とは比較にならないほどの貧富の差やホームレス問題、ドラッグや暴力の問題を抱え、どこから見てもユートピアなどでは決してないが、それでも、異国の者を受け入れ、居場所を与え、人生について考えさせてくれる懐の深さは確かにあったように思う。 そうした米国で学んだことの中で私にとっておそらく最も重要で、かつ大きな衝撃だったメッセージがある。それは、「誰かに助けを求めるのは、強さである」ということだ。 ふだん我々はこの国で、それとはまったく逆のメッセージを受け取っている。おそらく誰もが、成長過程で親や教師から「人様に迷惑をかけないように」と言われたことがあるだろう。「大人になる」ということは、人に頼らず、どんな問題が降りかかっても騒がずに自分で処理できる人間になること・・・こんな風に考えている人は多いのではないか。 でも、考えてもみて欲しい。あなたが何か深い苦しみを抱えているとする。でも、それを誰にも相談できない。助けを求めるのは自分のプライドが許さないし、周囲に迷惑をかけたくない。あなたは1人で何とかしようともがく。しかし、もがけばもがくほどどうしようもなくなり、ますます追い詰められる。あなたは鬱状態になる。そしてどんどん思い詰め、遂にはひっそりと死を選ぶ・・・。遺された人たちは仰天する。誰もあなたがそこまで苦しんでいたことを知らなかった。そして死なれてみて初めて、あなたが深刻な問題(借金、失業、病気、人間関係のトラブルetc)を抱えていたことを知る。彼らは深い衝撃を受け、悲嘆に暮れる。何故気づいてやれなかったのかと自分たちを責める。あなたの死は周囲の人たちにとって深い傷となって残る。 …さて、この場合、「苦しいから助けて欲しい」と騒ぐのと、黙って死んでしまうのと、結果的に、どちらが周囲に対する迷惑だろうか。・・答えは自ずと明らかですね。これほど極端でなくても、人間は一人で問題を解決しようとするとどんどん悪循環に陥り、ついには自分や他人を傷つけてしまうことになりがちだ。助けを求めない方が、結果的にはよほど迷惑なことなのである。 「助けを求められる」ということは、「自分の弱さを認められるほど強い」ということだ。人間とは本来弱いものである。「弱い自分を決して受け入れられない」のは、10代の若者にはよく見られるが、決して大人の態度であるとはいえない。プライドと自分の命、一体どちらが大切なのでしょうか(こう書くと、「プライドだ」という答えも多そうなのがこの国の恐ろしいところですが(笑))。 そうは言っても、助けを求めるのは難しい。我々の多くが尻ごみしてしまうのは、おそらく過去に「助けを求めたけれど、周囲は何もしてくれなかった」「かえって騒ぎが大きくなり、余計にダメージを受けた」といった経験があるからだと思う。しかし、はっきり言いたい。それは助けを求めたあなたの責任ではなく、ちゃんとした手を差し伸べられなかった相手が悪いのだと。 私が米国で心底驚いたのは、思い切って助けを求めたときに、即座に手が差し伸べられただけではなく、「助けてって言ってくれたなんて、ありがとう。本当にあなたは偉い。素晴らしい」と、その行為を褒めちぎってもらえたことだ。それは涙が出るほどうれしかっただけではなく、私にとってどれだけの力になったことだろう。自分の弱味を見せるのは、誰だって難しい。でもそれこそが自分、ひいては周囲の人々にとってベストであるからこそ、人は勇気を出して助けを求めるのだ。それが英雄的行為でなくて何であろうか。 だから皆さんも、自分一人で抱えきれないことがあったら周囲に助けを求めて欲しい。もしその際に嫌な思いをしたとしても、あきらめずに別の人を探して助けを求め続けて下さい。助けを求めるのは、強さであり、技術である。技術は磨けば上達するものだ。最初から自転車に乗れる人などいなかったことを思い出してみよう。繰り返し練習すれば、少しずつ上手になっていくものです。あなたには周囲のサポートを受ける権利がある。あなたが幸せになることはすなわち、社会の幸福でもあるのだから。 #
by premacolumn
| 2008-06-14 09:38
| カウンセリング
2007年 01月 27日
昨夜長沼で、私の尊敬する治療教育者であり舞台芸術家である川手鷹彦さんとピアニスト福田直樹さんによる、チェンバロとゲーテの詩の朗読の催しがあった。チェンバロの音色にかぶさるドイツ語と日本語の響きはとてもパワフルで、最近何故か疲れ気味の私もその瞬間だけはぱりっと元気になるほどだった。音楽の力とともに、言葉の響きそのものが持つ力を実感できた、稀有な体験だった。
このコンサートは合間に入る二人のトークも非常に面白かったのだが、そこで福田さんが興味深い話をしていた。彼はここ数年、チェンバロを抱えて全国を巡り、障害を持つ子どもたちの施設でのコンサートを300回も続けているという。そこで彼が発見したことについての話だ。 昨年生誕250年だったこともあり、いわゆる癒しの音楽として最近大変な注目を集めているモーツァルト。そのモーツァルトの音楽をまったく受け付けない子どもたちがいるという。いわゆる「自閉症」の子どもたちだ。彼らはモーツァルトが始まるとすぐに耳をふさいでしまい、コンサートの間じゅうずっと耳をふさいでいるか、ひどい子は部屋から逃れようとドアに突進したり、自傷行為に及ぶ子どもさえいるという。これはモーツァルトに限らず、他のクラシック作曲家の音楽でも大抵同じなのだそうだ。 自閉症の子どもたちと長年かかわっている川手さんの話では、自閉症の子どもたちの感受性は我々一般人の何百倍も鋭いという。たとえば自閉症の子どもに誰かが新聞を投げたら、その子の受ける衝撃は普通の人間に空飛ぶ円盤が降ってくるのと同じくらいなのだそうだ。彼らの繊細な感受性は、普通の人にとっては癒しの音色であるモーツァルトの音楽でさえも耐えられないらしい。 そんな彼らが、唯一静かに耳を傾け、場合によっては好きにさえなる音楽があるという。それは、バッハの音楽なのだそうだ。川手さんは、バッハの音楽は宇宙や天体のように完璧だという。余計な装飾音は一切なく、音の力そのもので出来ている音楽だと。 それを聞いて、深く腑に落ちるものがあった。私は本業のかたわら、ボランティアでちいさなクラシック雑誌の編集にかかわっているほどのクラシック音楽好きである。私のお気に入りはとても人間らしいベートーベンや、チャイコフスキーやラフマニノフなどのロシア音楽、ドビュッシーのピアノ曲やワーグナーのオペラなどだが、それらとは別に、バッハはこれまでずっと私の中で特別な存在だった。彼の音楽を聴いていると、自分の内側の最も深い、そしていちばん静かな部分に触れられる気がする。そしてあの完璧な旋律。「G線上のアリア」など、あれ以上シンプルで美しい完璧な音楽があるだろうか。 モーツァルトの苦悩のない響きももちろん美しいけれども、バッハには人の魂を揺さぶるような美しさがある。そして、それは深い癒しの響きなのだ。これからは、もっとバッハの音楽が癒しの面で注目を集めるようになるに違いない。そんなことを考えながら、ろうそくの灯りの下、チェンバロが奏でるバッハの旋律に耳を傾けていた。まるで自分がどこか別の空間にさまよい込んだかのような、不思議なひとときだった。 #
by premacolumn
| 2007-01-27 09:42
| 癒し
2006年 06月 27日
先日、スクールカウンセラーの研修会に行ってきた。テーマは発達障害で、二人の現役のスクールカウンセラーが自分が過去に関わった事例を発表し、それに別の専門家がコメントするという形式だった。事例を聞くのは、他の人たちが現場でどういう風に苦労しているのかが分かるし、コメンテーターの助言もおおむね非常に参考になるものだった。ただ、ひとつ非常に違和感を覚えたことがあった。
コメンテーターのコメントが、「ここはこうした方が良かった」というある意味批判的な助言ばかりで、うまく行った介入やカウンセラーの努力が実を結んだ部分に対する肯定的な承認が全然なかったのだ。平たく言えば、まったくといってよいほど相手を「ほめない」のである。経験豊富な先達から見れば未熟な面もあったかもしれないが、それでも彼ら2人はそれぞれ自分にできることを精一杯現場で行い、良い面もたくさんあったのに。 その「ほめない批評家たち」を見ながら私の脳裏によぎったのは、記者一年目にある先輩の元で働いたときのことだった。彼はその部署のキャップだったので、書いた原稿は毎日、デスクに出稿する前に彼に見せる。その時に彼から返ってくるフィードバックは「こういう書き方では伝わらない」「ここはこう書き直した方がいい」という「改善命令」ばかり。一度たりとも、わずか一行でも「ここはよく書けてるね」といったほめ言葉が彼の口から出たことはなかった。もちろん私は文章が下手な未熟な記者ではあったと思う。しかし、一箇所も良いところがないほどひどい記事を書いていたということはいくらなんでもなかっただろう。 そうした日々が続いたある日、原稿を書き上げた私は「またけなされるのか」と思うとうんざりして、キャップの目を通さずに直接原稿を出してしまった。もちろん、後で嫌味を言われたのは言うまでもないが。毎日毎日、ネガティブなコメントばかりを聞いていると、だんだんその人に相談を持ちかけることがつらくなる。そして何でもこっそり影で処理してしまうようになる。 これとは対照的な経験もしたことがある。私がサンフランシスコで最も長くインターンをしていたあるカウンセリングNPOの上司は、シャーリーという日系アメリカ人だった。大学院在学中は、学校からインターン先の上司にあてて学生の仕事ぶりの評価レポート提出を求める手紙が届くようになっている。本来ならばもちろんシャーリーが記入して大学院に返送するものなのだが、彼女はそれを私に記入させた。確かいろいろな項目を5段階評価する形式のレポートだった。 自分の評価というのは、大変難しい。自信のなかった私はほとんどの項目を、平均かそれ以下にしてシャーリーに出したと思う。それを見たシャーリーは個人スーパーヴィジョンの時にその用紙を持ち出した。そして何故そういう自己評価を下したか私に説明を求めてきた。 「インテーク面接で私はこういう所が足りないと思った」「学校の実習では、こんなところがうまくいかなかった・・・」等々自分を「批判」する私に、彼女は、「でも、あの時はこんな風に上手くいったわよね」「あなたのこういうところが良くできていると思うんだけど」と私の良いところをすべて「承認」するコメントをくれた。結局、レポートの評価は大幅に底上げされて、学校へと送られたのだった。そうすることで、私が自分に抱いていたマイナスイメージもちゃんとスーパービジョンの中でプロセスしてくれたのだ。 この件に限らず、彼女はいつでも私の良いところを見つけてほめ、力づけ、励ましてくれた。こういう上司だと、個人ミーティングの時間がとても楽しみになってくる。そして、どんな失敗も隠さずすべて相談するようになる。一度初期の対応をミスしてクライアントの家族とトラブルになった時も、私は何のためらいもなく彼女のところへ報告に行き指示を仰いだ。上司との間に信頼関係がなかったら、マイナスの評価を恐れて何とか自分で処理しようとし、結果的に傷を深めていたことだろう。日本の会社でよくある隠蔽体質はこうして生まれる。 いろいろな場所ですでに数限りなく言われていることではあるが、日本はとかく「減点社会」だ。相手の欠点を見つけてそれを指摘し改善させることが教育だと思っている。私の家庭環境、教育環境もずっとそうだった。故に自分が以前の仕事で後輩を持った時にもおそらくそうした態度で接していたのではないかと、今になって当時の後輩に本当に申し訳なく思う。 教育とはそういうものではないんだと最初に実感したのは、アメリカの大学院に入った時だった。毎週提出するレポートも、学期末のペーパーも、どの教師もこれでもかというほど肯定的なコメントを書いて返してくれる。私は当時すでに30歳を過ぎていたが、それでもほめられるとこんなにうれしいものかと思った。自分が苦労して書いた文章だから尚更である。おそらくたくさん英語のミスもあったと思うが、そんなことよりも教授陣は内容で評価できる部分をいつも見つけてくれたのだ。ほめ言葉が必要なのは子どもだけではない。 けなされるというのは、別の側面もある。批判され続けている人の中には、あまりにもそれに慣れてしまい、批判以外のコメントに耳を貸せなくなる人がいる。たまにほめられても、それを素直に受け取れなくなる。ほめられると怒る人さえいる。ほめ言葉というのは、自分の中に沁みこんでいき、それがだんだんと自信につながってゆく心の栄養なのに、その栄養を拒絶し、吸収できなくなってしまう。結果として、人間に一番必要な本当の意味での自尊心が育たない。そうすると、常に人と自分を比べてしまい、他人より優れていると思わないと自己肯定感が持てない人間になってしまう。 今、アメリカ時代の後輩の相談に乗ることがあるが、日本の職場で上司の心ない言葉に傷ついている人が多くて心が痛む。「あなたは臨床家に向いてない」「やっぱり私がやらなくちゃ駄目ね」等々・・。彼らの話を聞いていると、日本のカウンセラーは本当に後進を育てようという意志があるのだろうかと疑問に思ってしまう。 「あの子にはこんなに悪いところがあるから、何とか指摘して良くしてあげなければ。私以外に指摘してくれる人もいないだろうし」というのは、愛情のようで実は愛情ではない。本当の愛というのは、常にその人の中の最良のものを見ること、そしてそれを伝えることだと思う。私は、最良の上司とは、「自分の失敗をまったく隠さずに相談できる人」だと信じている。それには、シャーリーのような愛情が必要不可欠ではないだろうか。 私は今でも、渡米のたびに必ず元のインターン先を訪れ、シャーリーとおしゃべりする。逆に昔日本で働いていた時のキャップには、帰国後ばったり街で出会ったが、気づかなかったふりをして通り過ぎてしまったことがある(笑)。 さあ、あなたはどちらのボスになりたいですか? #
by premacolumn
| 2006-06-27 09:45
| つれづれ
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