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2005年 05月 06日
この2月に、7年ぶりに日本に戻った。久々に帰国してみて気づいたのは、カウンセリングや心理療法といったものが以前よりずっと身近になっていることだった。電話帳やインターネットで検索すると、いくらでもカウンセリングルームの名前が出てくる。私が初めて札幌に住んだ13年前には見られなかった現象だ。もし人々が、エステや映画に行くような感覚で気軽にカウンセリング(セラピー)を受けるようになってきたのであればとても喜ばしいことだ。しかし現実はどうもそうではないらしい。多くのカウンセリングルームは、本来の業務であるクライアントとの面接ではなく、カウンセリング講座や企業への講師派遣などが主な収入源になっていると聞いた。やはり、カウンセリングに興味はあっても、自分がかかるのには抵抗がある人がまだまだ多いのだろう。
「カウンセリングにかかる」イコール「頭がどこかおかしい人」「すごく大きな問題を抱えている人」と見られるのではないかという恐れは、実は私自身も持っていた。米国に渡り、大学院でカウンセリング心理学を学び始めた後でさえ、その偏見をしばらく引きずっていたように思う。入学後まもなく自分でもセラピーを受け始めた時、周囲には「授業の一環として通うことが義務なのよ」と言い訳していたことを思い出す。慣れない外国暮らしで専門家の助けを切実に必要としていたため、本当はそんな言い訳がなくても通っていたに違いないのだが。 結局私は、学位取得に必要なセラピー時間数をとっくに終了して大学院を卒業した後でもずっと、セラピストを変えつつ約6年間の滞米生活の最後までセラピーにかかることをやめなかった。そして滞米後半には、自分がセラピーにかかっていることを話すのに何の躊躇もなくなっていた。 その理由はまず、カリフォルニアではカウンセリングが余りにもありふれていることに気づいたからである。電話帳で「サイコセラピー」の欄を見ると、何ページにもわたり何百人ものセラピストの名前が載っている。心理学などを勉強していたせいもあってか、私の周囲ではセラピーにかかっていない人を探す方が難しかった。日常会話に自分のセラピー体験の話が普通に出るのだ。また、インターンとして自分でも働き始めてから分かったのだが、大学の留学生センターなどは、ごく気軽に日本人の学生を紹介してくる。「学業不振で気持ちも沈みがち」などという留学生がいれば、まず彼らが考えるのは日本語のできるセラピストを紹介することなのである。児童虐待で裁判所などが介入する場合も、親に問題がありそうだと判断されたらすぐに裁判所から親へのカウンセリング命令が出る。新聞の人生相談でも心理療法をすすめる回答は珍しくない。要するに「風邪を引いたなら医者へ行け」という感覚なのだ。 もうひとつには、長期間自分でカセラピーを受けてみて、いかにそれが大きな助けになるか実感したからだ。日々の暮らしの中で、ちょっとした人間関係のつまずきや大小さまざまのストレスにぶつかることは人間ならば誰しも当たり前のことである。そんなとき、何もかも一人で抱え込んでストレスをさらに大きくし、うつ病などで倒れたり失踪したりして結果的に周囲を巻き込むことになるよりも、安全な場所で信頼できる人の助けを借りてストレスを和らげ、その出来事を成長のきっかけにするほうがずっと健全なことだ。カウンセリングにかかることは、自己成長のための肯定的な試みに他ならず、コンプレックスを抱く必要は本来まったくないはずなのである。
by premacolumn
| 2005-05-06 10:03
| カウンセリング
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