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2008年 06月 14日
(北海道ダルクニュースレター 08年6月1日号より) 私は以前、米国に6年ほど住んだことがある。カウンセリングの勉強をするためであり、その6年間には専門分野から私的なことまで、実にさまざまなことを学んだ。米国という国は日本とは比較にならないほどの貧富の差やホームレス問題、ドラッグや暴力の問題を抱え、どこから見てもユートピアなどでは決してないが、それでも、異国の者を受け入れ、居場所を与え、人生について考えさせてくれる懐の深さは確かにあったように思う。 そうした米国で学んだことの中で私にとっておそらく最も重要で、かつ大きな衝撃だったメッセージがある。それは、「誰かに助けを求めるのは、強さである」ということだ。 ふだん我々はこの国で、それとはまったく逆のメッセージを受け取っている。おそらく誰もが、成長過程で親や教師から「人様に迷惑をかけないように」と言われたことがあるだろう。「大人になる」ということは、人に頼らず、どんな問題が降りかかっても騒がずに自分で処理できる人間になること・・・こんな風に考えている人は多いのではないか。 でも、考えてもみて欲しい。あなたが何か深い苦しみを抱えているとする。でも、それを誰にも相談できない。助けを求めるのは自分のプライドが許さないし、周囲に迷惑をかけたくない。あなたは1人で何とかしようともがく。しかし、もがけばもがくほどどうしようもなくなり、ますます追い詰められる。あなたは鬱状態になる。そしてどんどん思い詰め、遂にはひっそりと死を選ぶ・・・。遺された人たちは仰天する。誰もあなたがそこまで苦しんでいたことを知らなかった。そして死なれてみて初めて、あなたが深刻な問題(借金、失業、病気、人間関係のトラブルetc)を抱えていたことを知る。彼らは深い衝撃を受け、悲嘆に暮れる。何故気づいてやれなかったのかと自分たちを責める。あなたの死は周囲の人たちにとって深い傷となって残る。 …さて、この場合、「苦しいから助けて欲しい」と騒ぐのと、黙って死んでしまうのと、結果的に、どちらが周囲に対する迷惑だろうか。・・答えは自ずと明らかですね。これほど極端でなくても、人間は一人で問題を解決しようとするとどんどん悪循環に陥り、ついには自分や他人を傷つけてしまうことになりがちだ。助けを求めない方が、結果的にはよほど迷惑なことなのである。 「助けを求められる」ということは、「自分の弱さを認められるほど強い」ということだ。人間とは本来弱いものである。「弱い自分を決して受け入れられない」のは、10代の若者にはよく見られるが、決して大人の態度であるとはいえない。プライドと自分の命、一体どちらが大切なのでしょうか(こう書くと、「プライドだ」という答えも多そうなのがこの国の恐ろしいところですが(笑))。 そうは言っても、助けを求めるのは難しい。我々の多くが尻ごみしてしまうのは、おそらく過去に「助けを求めたけれど、周囲は何もしてくれなかった」「かえって騒ぎが大きくなり、余計にダメージを受けた」といった経験があるからだと思う。しかし、はっきり言いたい。それは助けを求めたあなたの責任ではなく、ちゃんとした手を差し伸べられなかった相手が悪いのだと。 私が米国で心底驚いたのは、思い切って助けを求めたときに、即座に手が差し伸べられただけではなく、「助けてって言ってくれたなんて、ありがとう。本当にあなたは偉い。素晴らしい」と、その行為を褒めちぎってもらえたことだ。それは涙が出るほどうれしかっただけではなく、私にとってどれだけの力になったことだろう。自分の弱味を見せるのは、誰だって難しい。でもそれこそが自分、ひいては周囲の人々にとってベストであるからこそ、人は勇気を出して助けを求めるのだ。それが英雄的行為でなくて何であろうか。 だから皆さんも、自分一人で抱えきれないことがあったら周囲に助けを求めて欲しい。もしその際に嫌な思いをしたとしても、あきらめずに別の人を探して助けを求め続けて下さい。助けを求めるのは、強さであり、技術である。技術は磨けば上達するものだ。最初から自転車に乗れる人などいなかったことを思い出してみよう。繰り返し練習すれば、少しずつ上手になっていくものです。あなたには周囲のサポートを受ける権利がある。あなたが幸せになることはすなわち、社会の幸福でもあるのだから。
by premacolumn
| 2008-06-14 09:38
| カウンセリング
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